「境界」からの「まちづくり」
私が考える、まちづくりの重要なキーワードに、「境界」への眼差しがあります。
まちには様々な境界が存在しています。
それはまず第一に「人」と「人」との間であり、第二に「もの」と「もの」の間に、そして第三に「こと」と「こと」の間に見ることができます。さらにそうした各々の領域間においてもその境界をいかようにも設定でき、又、見ることができるでしょう。このように言ってしまうと、「まち」という言葉はそのまま「世界」という言葉で置き換える事ができます。このことは「わたし」という「個」の存在を「世界」に対しあるいは「世界」においてどのように認識するかという存在の原理的認識に依拠することになります。つまり、「わたし」というその存在を、自らを中心とする領域として認識するか、あるいは「世界」の側から、つまり「世界」という共通認識から「わたし」を理解しようとするのか、その認識と生活の姿勢にかかるといってよいでしょう。
「わたし」と「世界」、あるいは「きみ」と「世界」という対置の認識は、思惟するわたしが「わたし」である限りにおいて、逃れられない認識の原初であり、又、限界を示しているといえるでしょう。さて、わたしたちの身近な生活世界、それは人によってその距離や対象は様々でしょうが、
まず、二人という単位を感じるところから、世界を意識するするようになるのが一般的でしょう。つまり「家族」、「親族」という関係世界の領域を、成長と共に外部へとひろげ、やがて、ふと気づくことになるのです。・・・・・・・
・・・ 『僕って何?』って
「世界」は「僕」のためにあるということ。
「世界」はぼくのために演技を演じつづけていてくれて、もし僕がいなくなっちゃうと、世界はその対象を失うことでその役割を終えることとなるんじゃないかって・・・そんなふうに感じてられたことはありませんか?私は今でも時々そんな事を思ったりすることがあります。しかし、ひとはやがて「世界」は本当に自分を必要としているのだろうか?と・・・そして、自分という存在を『世界』の側から見ていくようになります。大人は社会という関係環境において「いきる」という事に、そしてその意味や目的を生活のなかに見出そうとして、自らの『痕跡』を「世界」にしるしていくことになります。
ひとやものを、いとおしく思うとき、自分を超えた永遠性や美を認め、その存在を大切にしたい、あるいは育んでいきたいという感情が自然と湧き上がります。
そしてそうした存在するものの環境に対しても、たいせつにし、それぞれの存在を認め合い、その存在の意味や目的をさらに深く認識しようとするでしょう。愛情はあらゆる存在を寛容に受け入れ、他者の側から自己を見ることを促します。そして、そこには存在するもののすべての環境が愛されるものであってほしいという願いが生みだされ、いきることへの勇気をもたらしてくれます。
「僕」のための「世界」がみんなの『世界』へ、共通認識としての『世界』へ変えていくものは、そうした愛情や自己認識の変化によるものが大きいのではないでしょうか。
そのときの「僕」は、しかし、けっして、「世界」の側へいってしまったのではなく、その間に、つまり境界を認識しようとする場に立っているのです。
「愛」がしばしば禁忌を乗越えられるように・・・
絶妙なバランス感覚と勇気をもって・・・・
「まちづくり」はまさにそうした共通認識と愛情によっておこなわれるべきと考えています。わたしたちの「まち」はそうした『世界』観の反映であってほしいものです。そして、そうであるからこそ、まちづくりにはより多くの共通理解と参加が求められるべきであろうと思うのです。
「まち」は様々に存在します。
しかし、まずは、具体的に私達が存在し、生活する場から・・・
まちには様々な境界が存在しています。
見える境界もあれば、見えない境界もあります。また境界はプライベイトとパブリックの間としてみることもできます。それはすなわち先に述べた「僕」と「世界」の間であると考えることもできるでしょう。
日常空間において「世界」との間を「境界」として感じ、認識する最初のきっかけは、触覚的境界、視覚上の境界、そしてそうした物理的境界でしょう。物理的存在としての境界は、まずは肉親との接触によって、着せてもらう服によって、その「身体性」を感じるところから始まります。そして自らが「在る」場所においては、大地としての「床」、外界からの空間秩序を形成していくための「壁」や「覆い」を認めることになります。「壁」は「内部」と「外部」とを区別し、人間の秩序立てにおける最も象徴的な「境界」であると考えられます。それは我々を庇護すると同時に、世界を閉ざす媒体でもあるわけです。
こうした「境界」は建築や都市、まちのあり方にとっては極めて重要であり、その世界の生活習慣や精神構造が大きな影響を及ぼしていることは言うまでもありません。
まちを形づくる建築の姿は、どうでしょう?
道路や川、そして鉄道などの視覚的リニアの形態やその在りようはどうでしょうか?
人と人との境界の場でもあるコミュニティ空間としての、公共施設や公園は?
人間を包み込み共存していく、あるいはそれによって生かされている緑など自然との接し方はいかがなものでしょうか?
そして私が、まちづくりにおいて最も大切に考えるもの、
それはこの関係社会における人間と人間との「境界」に存在するものであり、「コミュニケーション」なのです。人と人のコミュニケーションがそしてふれあいがあってこそコミュニティが形成されるのでしょうし、会話のないまちに魅力や愛情はそして活力など決して生まれはしないと考えています。
つまり「コミュニケーションを促すまちづくり」が大切であると考え、まちを、そしてまちづくりを「境界」から見つめていこうと考えているのです。
みなさんにとってのまち
それは愛し、愛されるような「まち」であってほしいものですよね
追記 |
上記のような考えに基づき、私は「まちコロジー」という概念を提唱しております。まちづくりの基本理念としてご参照ご賛同頂けましたら幸いです。 |
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