「境界」としての「コミュニティ・カフェ」                       (頁作成021219/NASCI)







「境界」としての「コミュニティ・カフェ」

私にとってのカフェ

そして珈琲屋さんは、その芳しき香りとともに愛し、拘り続けてきた空間の一つです。「境界」という視点からカフェを捉えるならば、カフェはまさにプライバシーとパブリックの接点にあります。そして、その空間では、プライベートな時間をすごしながらも、パブリックの中の自分を感じることができます。つまり、心地よい社会性との接点に我が身を置くことができるからこそ、社会の側から私を省みることのできる空間であると考えています。私にとってのカフェ、それはくつろぎの鑑賞空間でもあります。そこには「見られる孤独」と「見る孤独」そして「語らい・・・」があるのです。
さて、カフェは、まちという社会性のなかでどのように位置づけられてきたのでしょうか。それはきっと、それぞれのまちの文化や歴史、地域性により様々なのでしょう。たとえばヨーロッパ近代の都市文化においてカフェは社交場としてその文化の醸成に一翼を担ってきました。そこではもちろん美味しい珈琲は欠かせませんが単に嗜好の場というのではなく、人々が楽しくおしゃべりに興じる場であるとともに、政治や芸術の議論を熱く戦わせたり、情報の発信基地ともなって時には文芸や政治を揺り動かす有力な拠点でもあったようです。

では今日の日本で見られるカフェブームはどうでしょう?

まちかどにカフェが増えることで、確かに、利用者の感性を刺激する良質なカフェは多くなってきたように感じられます。そんなブームの中のカフェを、訪ね歩くと浮かび上がってくるキーワードに、「癒し」や「なごみ」、「まったり」があります。そして注目されているカフェに共通して感じられるものは、女の「子」・男の「子」を惹き付ける「かわいい」そして「オシャレ」でありながら、同時にアットホームで人間らしさを感じられるカフェということが言えるようです。それは経営者やスタッフに若者の同世代性を受け入れるような親近感を感じさせる点があり、日常をすこしだけ背伸びさせたくらいの「手づくり感」や、小さな「こだわり」がお店の魅力となっているところが多いようです。
つまりカフェの「顔」はかつての喫茶店や珈琲屋に見られたような頑固オヤジや疲れたサラリーマンではなく、また業態のプロなどでもない、素人であり「若者」であり流行に敏感な等身大の「仲間」であることが受け入れられる理由でもあるようです。すなわち、より身近な存在が営むオシャレな場所として、カフェは若者のライフスタイルの一部として定着してきたようでもあります。
また一方、同じカフェでも、スタバのように規格型でありながら珈琲の美味しい飲み方の提案と共に、その気軽さとオシャレ感を演出して、圧倒的な集客力の獲得とともに店舗展開を大きく伸ばしているところもみられます。しかしながら、そうしたカフェブームの陰で、昔ながらのいわゆるまちの喫茶店が次々と姿を消していっているのも事実のようです。

さて、こうしたブームと共に現われてきたカフェは文化としてコミュニティに根付き、成熟していくものかどうかについては見守らなくてはならないでしょう。私にはやはりそれがブームに留まる限りは難しいようにも感じています。あるいは、もはやブームは過ぎ去り、淘汰すべき過渡期となりつつあるのかもしれません。今のブームが、それが個人的な「癒し」などの快適さだけに向けられ、あるいは若年層だけに受け入れられるようなものであるならば、所詮、流行として衰退してしまうようにも感じられます。親近感は、気楽さと同居し、カフェスタイルも地域に根付くよりも前に一時的な、「まったり感」すなわち個人的充実感を得ることで、コマーシャリズムのシステムに乗せられて移ろい、風のごとく去ってしまうようにも思われます。その軽やかさは魅力であると同時に、深味を欠き、テリトリーを狭めてしまっているようでもあります。


「境界」としての「コミュニティ・カフェ」

さて私が考えるコミュニティ・カフェは、本来、カフェはコミュニティ・カフェなどと言わずとも、コミュニティ空間であるはずのものですが、ここでは、より、地域や世代間の繋がりを重んじて、文化的交流の場としての性格を打ち出すカフェとして位置づけるものです。もちろん美味しい珈琲は無くてはならないでしょう。そして、その香りが訪れる人の心を穏かにさせる時、訪れた人の間でコミュニケーションが自然に涌きあがるような、あるいは「世界」=パブリックとの接点を感じられるような空間であってもらいたいと思うのです。もちろん会話や思想を押し付けてしまうような雰囲気は馴染まないでしょう。今のカフェが家の延長のような和み空間として人と人の距離を縮めたことは大いに評価しなければならないでしょうし、そこに感じられる開放感や自由でクリエイティブな雰囲気、そしてフレンドシップは大切にしなければならないでしょう。また、都市の住宅事情を考えても応接間のようにカフェがまちのサロンの役割を果たす可能性は大きいでしょうし、そこは垣根の無い世代を超えた繋がりが得られる場であるべきでしょう。そしていま少しそのアンテナがまちを向き、まちの文化を担い、あるいはまちに働きかけるようなクリエイティブなカフェであってほしいものです。
いかがでしょう。カフェは人と人の間に、プライベイトとパブリックの間に、住まいとまちの間にあります。コミュニティ・カフェはそうした「境界」にありながら、柔らかいクッションのように、優しく、まちの人を受け入れ、心地よく集うことのできる、そんな空間であると考えているのです。





はらっぱ祭り「カフェこまち」中国茶コーナーにて(撮影:中村 裕)


お客様と対面して行うお手前はコミュニケーションの
きっかけとして楽しい語らいの場となりました



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それは「繋がりのカフェ」 (出店への回想と記録)




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